レヴェナント

ブログを書くのは久しぶりになる。
3月の下旬、私の人生は大きくこけてしまった。かなり絶望し、何をしても上手くいかなかったのだが、4月がもうすぐ終わる今日この頃ようやく持ち直して来た。余談だが、今まで縁も無かったモデルということもたまにさせて貰えるようになった。その話は気が向いたらしようと思う。
レヴェナントがようやく日本でも公開され、私も見に行くことが出来たので、そのことを書きたい。ネタバレが含まれるかもしれないので、まだ見ていない方は気をつけて下さい。

私はこの映画を鑑賞するにあたり、全く予備知識を入れずに臨んだ。実は公開される一週間ほど前に原作を購入したのだが、読む気があまり起こらず、放置していた。結果は正解であったように思う。
息子を殺され、空っぽになってしまったグラスは他のものや概念と一体化しながら復讐へと突き進む。この一体化するという事象が非常に興味深い。グラスを瀕死にさせたグリズリーの毛皮を着ているところ、殺された息子と一緒に眠るところ、死んだ馬の腹の中で吹雪をやりすごすところ。一体化するという行為は自然やもしくはネイティヴ・アメリカンたちと仕事をする中で非常に重要となる。グラスの息子、ホークはネイティヴ・アメリカンと白人が一体化したわかりやすい象徴である。
この映画の主題はたくさんあると思うが、大きなテーマとして『復讐を終え、また空になった人間は何になるのか』だ。一度グラスは自分の全てであった息子を殺され、空になり、復讐のために生き抜いた。それが終わり、本来なら目的を達成したと喜ぶところで彼は気付く。復讐は終わるが、空っぽになった自分の人生は終わらないのだと。フィッツジェラルドを殺しても、息子が帰ってくるわけではない。もしくは大尉を殺しても、妻が帰ってくるわけではない。ラストシーン、観客を見つめるグラスの表情は絶望に満ちている。観客は問いを強烈な形で突きつけられ、映画館を後にしなければならない。その強烈な問いこそ、この映画の醍醐味である。後味を残し、『よかったね』では決して終わらせない。グラスも観客も答えのない問いに苦しむ。
このヒュー・グラス役でアカデミー賞を獲得したレオナルド・ディカプリオのセリフはほとんどなく、うめき声や目線、表情を使い、役を表現している。セリフはほとんどない。必要で無ければ喋らない寡黙な男性だ。
それに比べ、グラスの息子を殺したフィッツジェラルドはよく喋る。ここは対比なのだと思う。
レヴェナント、一言では言い表せられない複雑で陰鬱な人間関係と弱ければ死ぬという単純で美しい自然が織りなす矛盾と虚無の映画だ。ぜひ何回か見てもらいたい。見るたびに感じることが変わってくるはずだ。